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2020.04.14
余市リンゴの今と、これから。

りんご産業誕生の風景
◆開拓と共にあったリンゴ
かつて北海道の果樹生産を軌道に乗せた作物は、リンゴでした。北海道最大の果樹産地、余市町にとってもリンゴは特別な作物です。北海道の開拓史に、その由来が残っています。
かいつまむと、こんな物語です。
慶応4(1868)年、戊辰戦争で敗戦した会津藩は解体され、一部の人々は旧会津藩士団として樺太移住を命じられたものの紆余曲折を経て、明治4(1871)年に実質的に入植(樺太行きはその後、立ち消えます)。これが余市の農業開拓の先駆けとなります。当時、北海道の行政機関である北海道開拓使は、アメリカからお雇い外国人を採用して西洋式農業の普及をはかっていました。その計画の一環に果樹栽培があり、輸入された苗木はまず東京官園へ、その後、道南の七重官園(現在の七飯町)や札幌官園へ移され、明治8(1875)年に全道へ配布されます。余市にもサクランボ、西洋ナシ、西洋リンゴ、スモモ、ブドウなどの果樹苗木が届きましたが、手本のない試みで、当初はあまり栽培に熱心とは言えなかったそうです。
ドイツ系アメリカ人のお雇い外国人ルイス・ベーマーは、東京官園(今の青山学院大学青山キャンパス)で、西洋リンゴの接木法などの栽培技術を指導していました。全国の農業エリートたちが研修を受けに集まる東京官園に、余市からは旧会津藩士の中田常太郎と鈴木恭が派遣されてベーマーに師事します。明治9年、ベーマーは、後に北海道農業の父と言われたエドウィン・ダンと共に札幌官園に転勤し、ここでも余市を含め北海道の農業青年を指導しました。
余市リンゴの初収穫は、4年後の明治12(1879)年。いくつかのリンゴ苗木のうちの2種が、会津藩士の赤羽源八宅、金子安蔵宅で実りました。それは19号(緋の衣)と49号(国光)だったといいます。その後、秋田からの入植者が栽培に工夫を重ね、リンゴ栽培が軌道に乗る頃、開拓者の生活も少しずつ楽になっていきます。中でも緋の衣は品質のよさで知られ、天皇家へも献上していました。余市リンゴは大正時代にかけて本州へ流通し、一時はロシアへも輸出されました。ニシン漁とリンゴ栽培が二大産業となり、地域は大いに賑わいました。
リンゴの加工業としては、明治44年、町で初めてのリンゴ酒と果汁製造が行われたと言います。その後、昭和9年に大日本果汁株式会社(ニッカウヰスキーの前身)が創業し、同年りんごジュース製造を開始しました。大正元(1912)年には現在の北海道大学付属余市果樹園の前身が設立され、北海道各地で深刻化していたリンゴの病害虫対策を広く指導し、栽培技術を向上させました。
◆緋の衣で知る、リンゴの名付け
緋の衣の品種は、アメリカ・ミシガン州のKing of Tompkins Countyという説がありますが、輸入と普及の過程で19号という番号で呼ばれていました。その後、余市では緋の衣と名付けられます。名の由来は、会津藩藩主・松平容保公が孝明天皇から賜った布で調えた、誇りある緋色の陣羽織。また一説には、会津城開城の際、敵を迎えるために敷かれた、無念のこもった緋毛氈(ひもうせん)とも言われます。リンゴ苗の導入時に混乱があったらしく、同じ19号が北海道や山形県では緋の衣、青森県では松井と呼ばれていました。そこで苹果名称選定会が名称統一を行い、19号が緋の衣であると定まったのは明治28(1895)年。いずれにせよ、アメリカから来たひとつのリンゴ品種は開拓の歴史に放り込まれ、旧会津藩士の強い思いを名に負うことになったのです。
今回の参考資料)
・余市町ホームページ 余市でおこったこんな話
「17.リンゴ」「124.緋の衣の命名」「99.献上リンゴ」「93.リンゴジュースとサイダー」「180.大日本果汁の時代」ほか
・余市町郷土史
・JAよいちホームページ
・山本観光果樹園「余市リンゴとルイス・ベーマー」(ベーマー会による)
さて、次回はちょっと時を飛んで、緋の衣の今を見ていきます。
