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2021.04.06
緋の衣プロジェクト1〜ニシンとリンゴ、余市の宝。
余市の産業史の主人公は、ニシン、そしてリンゴだと思っています。
漁家が圧倒的に豊かだったこともあり、ニシン御殿や漁労に使われた場所は名所として残っています。でもリンゴには、歴史を感じさせる名所のようなものがパッと思い当たりません。
よく考えると、後で触れる北大余市果樹園や100年の木があるのですが、観光ではなかなか行きません。そのかわり、余市には多くの果樹園が現役で活躍し、歴史を今に受け継いでいます。(さらに言えば、果樹園は現在のワイン用ブドウ隆盛の基盤になった。それはまた別のお話。)2019に始まった「緋の衣プロジェクト」に関わったお陰でリンゴ農家の方々に出会って気づいたこと。それは、
リンゴ農家は、余市町の産業史を継ぐ人々である
ということ。
果樹園の人々は、開拓者として働き、町を豊かにした人々の子孫なのです。
◆まずは余市へ行ってみた
余市の陸は、入り組んだ海岸線へなだらかに広がる斜面が広く、だから日当たりがいい。気候は夏はからりとしたかと思うと一転して海の湿気を感じることもあり、冬は年によっては2メートル積もる。昔は今より一層、病害、台風、冷害も厳しかったに違いない。明治初期、ニッカができた頃の彩色写真を見ると、山のようなリンゴと一緒に姉さん被りと絣のモンペ姿で働く女性たちが大勢写っていて、果樹園が人々の仕事を作っていたこともわかる。昔、ニッカが台風で落ちた傷んだリンゴも全て買う!と言ってリンゴ農家の信頼を得た話(多くの書籍やNHK朝ドラ「マッサン」にも描かれている)は、町の一大産業のピンチを救ったからこそ残るエピソード。ウイスキー事業のつなぎではなく、リンゴジュースが本来の事業だった?という歴史の証言については、こちらを参照してほしい。少なくとも、ニッカが大日本果汁=日果 だというくらいは、観光客にももっと知られていいと思う。
余市に入植した人々の残した、教育と産業おこしの足跡。
果樹栽培は、春から秋まで手がかかる。観光果樹園の果物狩りシーズンは、外国人研修制度でアジア(見た限りだとマレーシア、タイ、ベトナム)の女性たちが大勢働いている。お客さんの側も、日本人と同じくらいアジア他国から来る人が多く、「お互い言葉が通じるから助かる」と園主から聞いたことがある。小樽発余市行きの各駅列車に乗ると、車両に日本人は私だけのこともあった。若い女性が多く、暑い国にはないサクランボやリンゴやブドウをもって、海沿いを走る車窓を撮りながらお喋りが弾み、多国籍の修学旅行みたいな雰囲気がなんだか楽しい。コロナ下の状況で賑やかさは減ってしまったけれど、かつて日本の女性たちが働いた果樹園にとって、現代の彼女たちの購買力と労働力は共に欠かせないものになった。日本が若かった昭和の時代、リンゴは人気者だった。今、彼女たちの世界ではリンゴが喜ばれて、仕事のもとにもなっている。なんだか、ずれた時間の二重写しみたいに不思議な感覚を味わいながら列車に揺られ、余市駅。静かな構内でお土産品としてリンゴジュースとアップルパイが売られている。
エコビレッジでは自家栽培ブドウのワイン、トマトソース、ジャムを生産。近隣の仲間の農家さんの製品も扱っている。
◆緋の衣を食べ継ぐプロジェクト
リンゴは余市の今と昔の両方に係る財産のひとつ、この点は間違いない。今も樹を守り生産を続ける人たちの歴史も含め、大切なリンゴだ。そうした視点から2019年、「余市エコビレッジ」という余市の団体が「緋の衣プロジェクト」を立ち上げた。同団体は地域との共生的活動を重視していて、実際、彼らのところへ来たウーファーが周辺の農家でも働いたり、若者人口が増えたり、地元人同士が改めて交流できたり、小さな変化を数多く起こしている。2013年〜2014年は北大農学院と協力して余市の果樹園のためにファンコミュニティ醸成イベント「余市スイーツコンテスト」を成功させた実績があり、私も企画実施に参加した。2015年以後はブドウをテーマにしたワークショップが発展してエコビレッジのワインが作られたりと、果樹園の価値を再認識する実践講座は続いている。その中で2019年に始まったのが、明治12年に余市で初めて実ったリンゴ品種、緋の衣をテーマにした「緋の衣を食べ継ぐプロジェクト」だ。緋の衣とは、国光、紅玉と並ぶ余市最古のリンゴ品種のひとつ。配布時は19号と呼ばれ、後から名が付いた。品種はアメリカのKing of Thompson Countyだと言われる。ただし開拓使が輸入した果樹品種は番号で表されたが、苗木が全国に広まる間に混乱があったようだ。(他県の取材でも紅玉は6号、国光は49号と北海道と変わりない。2つとも昭和の代表品種で、国光はふじなどの親、紅玉はあかねなどの親。)
東京や遠くはロシアへ輸出された余市リンゴ3品種。ラベルはよいち水産博物館蔵。
スタート時、事業趣旨をまとめる純科さんとはこんな話をした。
エコビレッジが地域で行ってきた活動は、すべて余市の農と食と学びにまつわるものばかりだ。地域の農業者のつながりに加わったり、食べる人や、加工や流通をする人を巻き込んだ取り組みをして、食について立場の異なる人が共に居られる場、をつくってきた。そうなるためにはみんなが、特に作る側が気になる題材が必要で、いい題材を取り上げると食べる人は食べる側の知識を、作る人は作る側の知識を、交換することになる。例えばエコビレッジのワインづくりも、地元のブドウ栽培の歴史を学ぶことから始まった。
同じアプローチで今回は、りんごを取り上げる。古い品種である緋の衣を扱えば、農業と歴史に学べる。もし実際に実らせることができるなら、歴史は今の現実に変わる。地域の人がオリジナルの味を知り、今のリンゴを捉え直す場面だってあるかもしれない。とにかく学びがモノに変わる何かまで漕ぎ着けたい。このようにして「農と食の接点にある学び」を重ねられたら、エコビレッジあるいは余市に、食と学びのコミュニティが育つかもしれない。だから今回の学びに欠かせない人は、歴史を受け継ぐ農家さんと、地理歴史の先生と、料理人さんやパティシエさんだ。
余談だがこの博物館は、建物から船の舳先が突き出しているというアバンギャルドで小さくて面白い場所だ。駅前からは少し離れているけれど、余市へ行くならぜひ寄ってみてほしい。町のHP連載200回を超える「余市でおこったこんな話」は他では読めない町のこぼれ話がいっぱいで読み飽きない。
2019年4月25日。
初回はワークショップ形式でよいち水産博物館の浅野敏昭さん(現館長)のお話を聞き、明治4年の山田町黒川町への会津の入植、苗木の配布、初収穫から余市のリンゴ産業の今までをおさらいした。出身の由来は今も町名に残り、農地は引っ越しできないから同じ場所に子孫がおられてある意味わかりやすい。近隣の農家さんも参加してくれて、ベテランの方からは「そうそう、その時はこんな事もあった」などと話題が広がって、生きた地史にワクワクする。浅野さんのお話は具体的な人名地名いっぱいで、丹念な聞き取りを長年続ける重みを感じるし、面白くてもっと聞きたくなる。札幌ケイク・デ・ボアの森伸司パティシエが用意してくれた余市リンゴのケーキや焼菓子を囲んで話を聞き合ううちに、農家とパティシエ、料理人、食べる人、立場も経験も違う人たちが一緒に学ぶ気分が少し芽生えたような気がする。ワークショップ前には挿木用の枝木が配布された。苗木の提供は北海道大学生物生産研究農場・余市果樹園。
りんご苗木たち、ベテラン農家さんたちのもとで大きくなって実ってね!
2019年8月17日。
ワークショップ2回目。純科さんが調整に苦心してくれ、余市のリンゴ農家の人たちのところへ見学して回れることになった。まずは緋の衣(別名19号)の古木のある吉田農園(余市町山田町)に立ち寄らせて頂いた。
推定110歳の緋の衣。
見学者一同、嬉しくて木のそばに集まった。写真の緋の衣の木について詳しい記録はないそうだが、ご当主の曽祖父が開いた果樹園の場所はそのままなのでおそらく110年以上。このために仕事から戻って来てくれたご当主から、緋の衣の名の由来を改めて伺えた。この品種は会津から移民した藩士たち(当初は樺太に行くはずだった)はじめ余市に入植した人たちが、官園から配布されたアメリカの苗木を実らせたものだ。だから当たり前なのだけど、会津に元来あったわけではない。明治時代に北海道へ来て苦心の末に実らせたリンゴのエピソードは、姉妹都市の会津若松でも話題になり、この農園から会津へ継ぎ穂を提供したそうだ。写真の木はすでに幹のど真ん中に大きな洞があって、それなのにたくさんの実を結んでいたのが不思議で健気だった。会津の継木は見事に実り、ご当地でブランド協議会ができたり話題づくりになったようだが、今はどうなっているのだろう。「会津 緋の衣」で検索しても2018年以降見当たらないが、緋の衣のお菓子の画像は「太郎庵」のHPに残っていた。
接木の話になれば表情一転、現役の貫禄!
阿部農園の阿部さんがつくるリンゴは同じ品種でも一層味が濃い。
実は2017年まで、札幌三越にも年一回、「緋の衣」が並んでいた。三越に緋の衣を提案して納めていた果物仲卸会社、札幌の藏重商店で話を聞くチャンスがあり、緋の衣を吉田農園の先代から仕入れていたとわかった。藏重商店はリンゴが足りなければトラックで買付に行くこともあり、余市でも札幌の市場でもそうした会社を「リンゴ屋さん」と呼ぶ。それを聞くと、昔は北海道で流通できる果物といえばリンゴが主力商品だったんだなあと思う。(藏重商店のリンゴ担当者インタビュー記事はこちら。)他にも緋の衣は残っていて、源流は一農園だけではない。井川農園は2018年までJAに出荷していたと、ご本人から聞いた。「市場で毎年、数箱だけ見かける」と噂で聞いたのは井川さんのリンゴかもしれない。余市のリンゴの流通はJAだけでなく札幌中央市場や場外にも行っているので、まだ他にも緋の衣の木を持つ農家さんがあるかもしれない。
実際、2017〜2018年には緋の衣や国光の木を持つ他の果樹園にも寄らせてもらった。ある果樹園のご主人が帰り際、うちはもとから農家だったから、リンゴはずっと上手につくってたんだよ、というようなことをつぶやいた。余市には会津だけが入ったのではなく秋田の人も多く入植していて、それぞれ価値観やプライドの置き所が相容れなかった時代があったらしい。リンゴにとっても人間にとっても一方的な話だけ書くよりはよほどましな気がするので記しておきたい。どこにだって地元民が触れない部分があるのは弁えてはいるけれども、物事には色々な真実があるのが健全ということで…。
2019年11月、古い品種が残っている北大余市果樹園から試供された緋の衣の果実を、地域の農作物に詳しい札幌「ケイク・デ・ボア」パティシエの森伸司さんに試作してもらった。「果実の質が独特。加熱すると一気に崩れ、ペクチンが強くて冷めるとしっかり固まる」ということで、そうした品種で作っていたであろう古いフランスのレシピを参照したという、とても理にかなった試作に一同驚いた。洋菓子や欧風料理のプロの中には、古いレシピ本を読み解くのが趣味という方が結構多い。やはりルーツを見つけることは創作につながっているのに違いない。このリンゴの学び合いも、それぞれの次の何かに繋がっていけたら嬉しい。